先月8月下旬、下関に向う前に非公開で投稿していたものの、その後、永く父親代わりであった叔父の逝去、さまざま重なり、投稿を待機していました。今夏を振り返る大作の後編は、江田島のサマーフェスタより。
▼2017年7月30日(日)広島県江田島市『サマーフェスタ江田島2017』
呉のサマーフェスタ翌日は江田島のサマーフェスタ。いずれも3年ぶりでありました。前日の呉に続き、この日の江田島も「猛暑」。瀬戸内は温暖な気候で知られますが、呉や江田島は湿度が高く大変蒸し暑い!ですが、「島の夏」らしい独特の風情があります。何処か懐かしい。
『サマーフェスタ江田島』も午后から始まります。むしろ、夕刻と云った方が良いでしょう。『ヨコスカサマーフェスタ』は午前9時から始まり午后4時には終了しますが、江田島は午后4時から始まります。夕刻と云っても、まだ陽は高く、がっつり蒸し暑いのです。今年は特に暑かった…。気が遠くなりつつ歩いてゆくと、「働く車」がたくさん。頭がぼ〜っとしていましたので、「わあ…車がいっぱい…」。そう云えば…これまで、グラウンドに普通車が入っていた記憶がありませんでした(店舗の方々のお車でしょうが)。
しばらくの間、人探しをしていたのですが、ようやく出会えましたので、表桟橋へ。江田内には横須賀より試験艦「あすか」さん。電灯艦飾をご担当されます。「あすか」さんの右手に「ダイヤモンド津久茂」。久しぶりの江田島の夕刻。独特の風情があり、「日本の夏」の原風景のように思えます。
夕刻に特別警備科処分艇(処分艇は潜水科のものですね)や機動船、ヨットの体験試乗が出来るのも、江田島ならでは、です。横須賀では処分艇体験試乗は競争率が高く、断念される方々続出なのですが、江田島では、ほぼ確実に乗れるように思いますが(勿論、待ち時間はあります)。表桟橋前には花火の台船。とても近くから打ち上がる事が分かります。
『サマーフェスタ江田島』は、全国随一?の再会の場でもあります。かつての掃海隊群司令、第1術科学校長でいらした徳丸氏にお会いしました。徳丸学校長在任期間中の「江田島」が最も多くの記録があります。徳丸氏にお会いするのは、5月の『第66回 掃海殉職者追悼式』以来でありました。お隣は、かつて掃海母艦「ぶんご」さん航海長をなさった松江さん。現在は第1術科学校の教官をなさっています。この頃から、続々の「再会」が始まります。「江田島」は全国各部隊から皆様が集結されていますので、掃海部隊の皆様のみならず、掃海部隊から他部隊(科)へ異動された方々にもお会いする事が出来ます。「わあ!お久しぶりですね!」に続いては、「今、どちらに?(ご所属)」が常です。江田島を何処か懐かしく思うのは、そうした再会があるからでもありましょう。
今夏の『サマーフェスタ江田島』で、最も記録が多かったのは、第1術科学校第2901期海曹航海課程29名の皆様。「精鋭らっぱ隊」です。日の入りの刻、皆様の「らっぱ君が代」吹奏に合わせ国旗が降下されますが、その前に、「速歩行進」の曲を吹奏しながら行進されます。「速歩行進」の音色は一度聴くと、忘れられなくなります。自衛隊記念日の観閲行進の大トリも、らっぱ隊の皆様の「速歩行進」です。江田島でなくとも吹奏される機会はあるでしょうが、自分にとって、「江田島=速歩行進」となっています。今年は動画で記録する事となりました。既にyoutubeへアップロードしてあります。
「らっぱ隊出陣前」の画像をまとめましたが…どうでしょう。1cut毎を単独でfacebookの方へ投稿した方が良いかもしれません。
らっぱと拳。とても印象深い光景でした。間もなく日の入り。らっぱ隊の皆様が「速歩行進」で出陣してゆきます。よく「一糸乱れぬ」と表現されますが、らっぱの音色は、ぴたりと合っていました。物事をぴたりと合わせるのは簡単な事ではありません。簡単なように思えるかもしれませんが。見ているだけ、聴いているだけでは簡単なように思えるかもしれません。音を合わせるのは「シンプル」ですので、シンプル=簡単であると錯覚しがちです。しかし、シンプルは実に難しく、いざ、じゃあ、あなたやってみて下さい?と振られた時に、その難しさを痛感するでしょう。
らっぱ隊の皆様が国旗掲揚塔前に到着されました。国旗降下も動画で記録しておりますので、画像がありません。この日の日没は午后7時14分。帝国海軍時代より永々と続けられている日の入り刻国旗降下。国旗降下と同時に江田島湾に錨泊している試験艦「あすか」さんの電灯艦飾が灯ります。毎年3月に練習艦隊さんが江田島湾に集結されますが、その際には電灯艦飾は行いません。11月の自衛隊記念日の際は艦艇さんがたは来られませんので、江田島湾での電灯艦飾は、サマーフェスタの晩のみです。
国旗降下の後、池太郎 呉地方総監ご夫妻にお会い致しました。前日の『呉サマーフェスタ2017』第2部では、素敵な浴衣お姿でありました。とても暑かったのですが、ふと…ご夫妻のお姿に2013年の幹部候補生学校卒業式の日を思い出しました。池 呉地方総監が幹部候補生学校長でいらした年です。大講堂での卒業式が終了して間もなく、突如、天候急変し、雨霰の荒天となりました。壮麗な表桟橋までの行進は…と案じていたのですが、奇跡が起き、素晴らしい晴天となり、その後、大須付近には虹も。江田島には何か…強い力が満ちている…と、その時、改めて感じました。今も解明出来ていませんが、表桟橋と国旗掲揚塔の位置も。さまざま思う江田島の夏。日本の夏。
『サマーフェスタ江田島2017』の大トリは海上花火。呉は地方総監部赤煉瓦の庁舎と花火。江田島は…距離が大変近い事もあり、多少フレームアウトしようと「江田島」を象徴する松と共に記録しようと。電灯艦飾の「あすか」さんが僅かに松並木の間から見えていました。また、思わぬ存在であったのが月です。花火が大きいですから、殆ど分からないかもしれませんが。松と花火と月と電灯艦飾。素晴らしい競演でありました。
臨場感満点の江田島海上花火大会。サマーフェスタと花火には特別な思い入れがあります。それは、この後の横須賀篇にて記載致します。
▼2017年8月5日(土)横須賀市「ヨコスカサマーフェスタ2017』
呉、江田島のサマーフェスタから1週間後。横須賀でのサマーフェスタ。2008年の『ヨコスカサマーフェスタ』がきっかけとなり、海上自衛隊さんの見学記録が始まりましたので、まさに「原点」。各地で行われているサマーフェスタは日程が重なる事が多かったのですが、今夏は呉、江田島、横須賀、下関と4地点の見学記録が叶いました。しかし、西日本の猛暑が堪え、へとへとの状態。
行事と云えば、横須賀上級海曹会さん。数年前までは飲料水の無料配布は行われていませんでしたが、暑さ厳しい盛夏での長丁場。冷たいお水の配布は有り難い限りです。各地での一般公開の際、近くに自販機がある場合でも、大勢の方々が買い求めますので、やがて冷えていないペットボトルが出て来るようになります。何を贅沢な…と思われるかもしれませんが、炎天の屋外に長時間居続けると、身体の中から冷やさないと意識朦朧として来ます。
吉倉桟橋には一般公開ご担当の砕氷艦「しらせ」さん。毎年、日本全国を廻られる「総合訓練」出港を控えていた「しらせ」さん。横須賀にいらっしゃる期間は、1年のうちでも、僅か。南極より戻られた直後の4月の数日間、サマーフェスタの行われる8月、総合訓練行動から戻られるのが10月初め、11月に南極へ出発されるまで。
今夏は6年ぶりに「しらせ」さんお二方が再会されたとの事。画像は前回の2011年9月30日。先代5002しらせさんは2010年2月まで、横須賀にいらっしゃいました。勇退されたのは2008年7月30日ですので、「原点」となった『ヨコスカサマーフェスタ2008』直前。2度のサマーフェスタを吉倉桟橋で見守っていらした事になります。
ここ数年、『ヨコスカサマーフェスタ』を訪れておりませんでしたので、とても久しぶりに横須賀水中処分隊ブースにやって参りました。「原点」の『ヨコスカサマーフェスタ』も午后からの見学であった事もあり、何故か今年は妙に2008年と2009年が思い出されていました。何故に妙に思い出されたかは、後に記録の画像を確認し、「なるほど」。その場では、厳しい暑さであった事もあり、漠然と感じていたのですが、漠然は「何となく」ではなかった事が分かりました。
横須賀水中処分隊さんもお顔ぶれが代わりましたが、こちらのお二方は陸奥湾から戻られた直後の第41掃海隊 掃海艇「ちちじま」さんEOD。お手伝い出動であったのですが、実は左の坂本さんは2008年のサマーフェスタの際は横須賀水中処分隊さんでした。
横須賀水中処分隊ブースは早くも撤収の時間帯に入っていましたが、こちらには『ヨコスカサマーフェスタ2008』にて横須賀水中処分隊展示を行われたお方が。そして、かつての第41掃海隊 掃海艇「のとじま」さん冨沢艇長もいらっしゃいました。
こんなにもコンパクトにバッグに収納出来てしまう防爆衣。『ヨコスカサマーフェスタ』では定番となった展示ですね。
防爆衣着用時の記録。かつて掃海隊群司令部水中処分班が置かれていたこの建物も、今は存在しません。例年、サマーフェスタは行われますが、『サマーフェスタ』と云う行事としては変わらずとも、年毎に人が入れ替わり、建物が入れ替わり…そして、9年と云う年月が経過すると、「横須賀も大きく様変わりした」と、感じます。しかし、戦後72年からの年月を思えば、僅か1/8。次第に遠くなる昭和。次第に遠くなる先の大戦。その大戦を経験された方々もご高齢となり、自分も若いとは云えぬ年齢になって来ました。数年前から焦りを感じるようになってきています。それは自分が年老いて行く事への焦りではなく、「失われてゆくもの」に対しての焦り。
2008年8月2日、『ヨコスカサマーフェスタ2008』にて、初めて「EOD=水中処分員」の方々の存在を認識。それから9年。始まりは横須賀でしたが、翌々年から各地へと見学記録が拡張してゆきます。インコの親子が見学しているのは、横須賀水中処分隊のどなたかのスノーケルやフィンの「スクーバ」セット。特別珍しい展示ではなく、「基本」の展示なのですが、やはり「原点」。
こちらは2015年6月の江田島。第1術科学校潜水科「開式スクーバ課程」の海実習素潜りの部。翻るフィンが見えているだけですが、上の画像の「セット」で潜られています。「開式スクーバ課程」は、潜水員の第一歩。海上自衛隊さんのみではなく、陸上自衛隊さんからの学生さんもいらっしゃいます。航空自衛隊さんの学生さんもいらっしゃるかもしれません(この期にはいらっしゃらなかったと記憶していますが)。つまり、三自衛隊共通の学科とも云えますね。自衛隊さんには実に多種多様な部隊部署が存在しますが、「潜水」の他に三自衛隊共通の「科(技)」はあるのでしょうか。まだまだ不勉強な新米見学者ですので、思い当たりませんが、お判りになられるお方にお教え戴ければ幸いです。2008年の8月2日、『ヨコスカサマーフェスタ』にて行われていた横須賀水中処分隊展示が、あまりに鮮烈なインパクトがあり、それが全ての始まりとなったのですが、海上自衛隊さんの始まりも「航路啓開=掃海」ですので、ピンポイントで「原点」に突き当たった事になります。
撤収中のパネル展示にEODへの道のりが標されていますね。2008年以降、見学記録もパネルの矢印通りに進んでゆきました。『サマーフェスタ』は、単なる盛夏の見学、写真を撮るだけのイベントではなく、重要な道しるべでもあるのです。そして、年に一度の貴重な「場」でもあります。
建設中の逸見岸壁。『ヨコスカサマーフェスタ2008』横須賀水中処分隊展示。この展示がなければ、現在の見学記録は存在していなかった事でしょう。現に当時、一旦は通り過ぎたのです。しかし、強烈?に襟首ひっ掴まれるように引き戻されました。引き戻された要因は、当時の杉山 横須賀水中処分隊長(現 下関基地隊副長)のテンションの高い「皆さーーーーん!!!」と云う第一声であったのですが、機雷を目にしたのも、漆黒の「爆発物処理班」の文字を背負う皆様も、この時が初めて。
横須賀水中処分隊展示は約10分と云う短い時間。「キモ」となる処分艇から飛び込み、機雷が「ボムッ」と爆破されるまでの展示は僅か3分。しかも、展示最終回でした。まさに「運命の10分間」であったのです。見逃していたら、現在の見学記録は確実に存在せず。航路啓開も知らず、掃海部隊の存在も知らず、のうのうと日々を過ごしていた事でしょう。香川県の金刀比羅宮さんへゆく事も、青森県の大湊、広島県の呉・江田島、沖縄県のホワイトビーチ、三重県の松阪・四日市、熊本県の水俣・八代、鹿児島県の米ノ津、北海道の函館、そして、山口県下関市、福岡県北九州市若松へも行く事はなかったでしょう(宮崎県は知人が多かったので、幾度も訪れていました)。太平洋戦争時、日本の海が機雷に埋め尽くされていた事も知らなかったでしょう。学校で教えられていませんでしたので。かろうじて、ペルシャ湾掃海派遣部隊の記憶は僅かにありました。僅かにありましたが、記憶の彼方。微かな記憶。それが、2008年8月2日、突如、目の前に甦ったのです。「当事者の方々」を目の当たりにし、愕然としました。『サマーフェスタ』が単なる楽しい盛夏のイベントではない、と前述しましたが、それが「この事」です。約10分間で記憶の彼方にあった微かな「ペルシャ湾掃海派遣部隊」が、約20年の時を経て、横須賀に甦っていたのです(実際の20周年は2011年)。
「湾岸戦争後、日本は金は出したが、汗はかかないと云われましたが、我々掃海部隊が…」と、当時の杉山 横須賀水中処分隊長が熱弁振るわなければ、漆黒の「爆発物処理班」の皆様を単に「かっこいい」と写真に撮っていただけかもしれません。写真を撮っただけでは、記録としては残りますが、それっきりになる事が殆ど。そして、2008年の翌年2009年以降、横須賀水中処分隊展示は行われていません。『サマーフェスタ』は大変貴重な機会なのですが…
2009年の横須賀水中処分隊展示は、横須賀地方総監部内のあちこちで行われました。場所を決めると、そこに見学者の方々に集まって戴く事になりますが、あちこちで行われれば、気付いていなかった、より多くの方々が目にする事が可能になります。画像を復刻して気付いたのが、この年の潜水艦さん公開をご担当であったのが、「たかしお」さん。今年2017年も「たかしお」さんがご担当でありました。奇しくも…と思ったのですが…
更に、2009年の画像を遡ると、一般公開されていた砕氷艦「しらせ」さんも今夏と同じ位置でありました。妙に2008年、2009年が思い出されていたのは、記憶の中に存在していたからであったのでしょう(観た事のある光景)。
『ヨコスカサマーフェスタ2009』は、先代砕氷艦「しらせ」さんでも行われました。前年2008年と2009年は、「しらせ」さんお二方が揃っていました。
また、別の画像では、海洋観測艦さんがたが「しらせ」さんの横にいらした事も思い出しました。今夏も海洋観測艦さんがたが吉倉桟橋にいらっしゃいました。今夏は何故か「原点」に引き戻されるような光景が続いていました。「初心を忘れるな」「原点に帰れ」。と云う事であったのかもしれません。
『ヨコスカサマーフェスタ2017』終了。「通り抜け見学」ご担当であった「たかしお」さんが出港。思えば、最初の『ヨコスカサマーフェスタ2008』終了時も、「たかしお」さん付近で、「終了しました!御早くお帰り下さい!」でありました。残念ながら、時間・体力切れで米海軍さん側にいらした掃海母艦「うらが」さんの見学には辿り着けませんでした…。『ヨコスカサマーフェスタ』が終了後は、開国花火大会となります。昨夏は米海軍さん内から見学しましたが、今年は何処から…と思案していました。思案していたのですが、『ヨコスカサマーフェスタ2017』終了の時点で、猿島行きを決定。
数年ぶりに訪れた猿島。丁度、目の前から打ち上がりました。前回訪れた際は、2地点から打ち上がっていましたが、今夏は猿島前のみ。美しい横須賀の夜景と花火。では、何故、花火に特別な思い入れがあるかを。『ヨコスカサマーフェスタ2008』にゆこうと思ったきっかけは花火でした。数年間、スチール写真を撮らず、音楽業界で動画を撮っていたのですが、様々あり、きっぱり足を洗ったのが2008年6月。先日亡くなった、長く父親代わりであった叔父の誕生日(横浜開港記念日)の花火がスチール写真復帰第1弾だったのですが、不穏な花火写真の連続となり、腕が落ちた…と愕然としたと同時に、云い知れぬ嫌な予感がありました。その1週間後、叔父は脳出血で倒れ寝たきりとなります。叔父の回復を願い、次の花火大会は…と日程を調べると、横浜港神奈川新聞花火大会、横須賀開国花火大会と続いていました。横須賀の花火大会の前に横須賀地方総監部一般公開が行われる事を知り、「では、海上自衛隊さんの見学をした事はないから行ってみよう」。それが全ての始まりになるとは、夢にも思わず。
その叔父も9月6日に亡くなりました。9年にも渡り、寝たきり、食事も摂れず(胃ろう)、懸命に喋ろうとしても、なかなか伝わらない。叔父が倒れてから数ヶ月後、横須賀の帰りに見舞に行った際、自分が海上自衛隊さんの見学記録を始めたと報告すると、懸命に「海上自衛隊…海上自衛隊…」と何かを云おうとしていました。しかし、海上自衛隊は聞き取れたのですが、その後が分からない。叔父は何を伝えようとしていたのか。叔父は昭和12年生まれでした。聴いておくべき太平洋戦争時、終戦後の事柄が数多あった筈なのですが、最早叶わず。
頼りにしていた叔父の死は、自分にも姉である母親にとっても落胆喪失感強く、しばらくは何も手につかない状態でありました。その為、長く投稿を休止していました。その間、北朝鮮のミサイル発射が続いていた事もありましたが。
花火は叔父と重なる事もありますが、2008年8月2日以降は、花火が特別な意味を持ち始めました。「花火」は爆発であり、「爆発」は、機雷、爆発物処理班、爆発性危険物と直結しています。「象徴」です。機雷に対する勝利は「爆破処理」。安全化。今夏、花火記録したのは、呉、江田島、横須賀、下関の3地点。若松の花火が記録出来ていませんが、特に関門海峡と若松の花火には、特別な意味を感じています。最も機雷が過密に敷設されていたのは、関門海峡、瀬戸内海、若松沖もです。戦後70年以上が経過し、大勢の方々が花火を楽しめるようになりましたが、太平洋戦争時、終戦から数年間は、花火を楽しむ事など出来なかったのです。花火どころか、日々の生活もままならなかったのです。
では、前後編に分割したものの、それでも文字数上限に達しましたので、更に分割せざるを得なくなりました。