1週間の休刊となりましたが、その間、細かい描画を行っておりました。『第66回 掃海殉職者追悼式』詳細投稿第4回は、前日の「たてつけ」にて構成致します。「たてつけ」とは、海上自衛隊さん用語の一つですね。一般的用語に変換すると「予行」。では、投稿を再開致しましょう。
慰霊祭が終了し、池 呉地方総監を先頭に湯浅 掃海隊群司令、掃海部隊の皆様は、一旦「朝日ヶ岡」より移動されます。『第66回 掃海殉職者追悼式』を翌日に控えた、この日が最も多忙な1日であります。分単位のスケジュールと云っても過言ではないかもしれません。掃海部隊の皆様が寄港されている高松、金刀比羅宮さん両地点でのご準備、行事が同時進行しています。金刀比羅宮さんは高松から電車で約1時間、車では1時間以内ですが、2地点往復となり、また夕刻から行われる艦上レセプションまで、みっしり予定も時間も詰まっています。
慰霊祭が始まる直前に記録した光景ですが、静寂の朝日ヶ岡。年に一度、5月の最終週には多くの方々が訪れますが、それ以外の期間は、このように穏やかに静かな時が流れている事でしょう。安らけく緑深し「あさひがをか」。
朝日ヶ岡には、櫻の樹が多くありますが、その中に「江田島 兵学校の櫻」があります。いつの頃に、こちらに移植されたのでしょうか。掃海殉職者顕彰碑建立は昭和27年7月7日(第1回 追悼式は6月23日)。海軍兵学校は昭和20年12月1日を以て、全校が閉校となっています。確認の為、ふと以前作成した画像を確認致しました。
奇しくも?年表の画像は、掃海殉職者顕彰碑建立の昭和27年から始まっていました。海軍兵学校が昭和20年に閉校になっても、「江田島」は生き続け、今もなお、往時の姿を留めています。「江田島」の櫻は、まるで「花道」であるかのように学校の道の傍ら、中庭にあり、開花の時期は夢のように美しい光景となります。その美しい櫻を朝日ヶ岡へ移植されたのは、いつの時期であったのか。今年で8度目となる朝日ヶ岡ですが、何故か石碑の裏を確認していないのです。この櫻が、どのような道(行程)を辿り、この朝日ヶ岡にいらしたのでしょう。おそらく、昭和27年に移植されたと思われますが…。江田島と琴平を繋ぐ、1本の櫻。ふと、東日本大震災発災後、被災者の方々の心の支えとなった「奇跡の一本松」を思い出しました。奇跡の一本松は広田湾に面した高田松原にある事も、「奇跡の共通点」かもしれません。東日本大震災災害派遣では、神戸の第42掃海隊さんが広田湾の捜索を行われました。JF4部隊=掃海部隊のうち、最も多くの犠牲者の方々をご家族のもとにお帰しになられたと伺っています。掃海殉職者追悼式には、掃海隊群と呉地方隊にご所属の掃海艦艇さんがたが参加されます。神戸の第42掃海隊さんは呉地方隊です。犠牲者の方々が一時安置されていたのは掃海母艦「ぶんご」さん。「ぶんご」さんは掃海隊群ですが、呉の艦です。朝日ヶ岡は江田島、東日本大震災被災地とも繋がっているのかもしれません。
2017年5月26日に戻りましょう。慰霊祭終了後は毎年、海上交通安全加護の金刀比羅宮さん詣でを致しております。金刀比羅宮さんと云えば、階段。掃海殉職者顕彰碑のおわす朝日ヶ岡は約300段に位置しています。勇ましく邪気を祓う狛犬さんがいらっしゃるのは、約652段程の「闇峠」付近。目指す御本宮は785段。気が遠くなるような段数に思われるでしょうが、実際に昇ってみると、各所に多数の社殿があり、全てにお詣りしていると、苦にはなりません。お詣りせずに一気に昇ろうとすると、大変厳しいでしょう。金刀比羅宮さんの階段は、「人生」を示されているのかもしれません。何事も「急いては事を為損じる」。一気に走るようにゆくべからず。走れば、いずれ倒れます(余程の健脚でない限り)。また、苦行であるかのような階段の一段一段を確実に登る事が賢明と。全ては「積み重ね」であると。今時、「根性論」を否定したり、嘲笑したりする風潮がありますが、「根性」は必要です。例えば、めざましい活躍をするアスリート。血のにじむようなトレーニングをしています。何の努力もせず、頂点に立った人は居ない、は云い過ぎではないでしょう。華麗に舞うバレリーナもです。自分が以前関わっていた、舞台や映画・映像の世界もです。多くの人々が感動したり、傾倒したりする「作品」は、スタッフ・出演者が、とてつもなくツラい思いをして創り上げています。楽して創った作品は、人を感動させる事はないでしょう。与えられる側と与える側。それは「日々の安全」にも云えて、今、フツーに暮らせているのは、誰のおかげあってか。当たり前に与えられる側である者が忘れ謳歌しているだけの事。「抑止力は目に見えない」。護られている者の傲慢。
闇峠の本宮手水舎前より振り返り。御本宮まで、あと一息の地点。生い茂る樹木と静かな水音のおかげあって、とても涼しく感じられ、また不思議と安堵できる空間です。本宮手水舎付近には「永代常夜燈」が多数あり、一度、灯をともした夜間に訪れてみたいと思わせます(実際に灯をともされる事はないのかもしれませんが)。
785段到達。御本宮前より、讃岐富士、瀬戸大橋方面。高松方面は右端。785段を昇った者だけが見られる実際の光景。金刀比羅宮さんのお守りやお札などは、御本宮地点でないと入手できません(画像は最初にお詣りした2010年度)。
御本宮左手にある絵馬殿には、絵馬よりも艦艇・船舶の写真の方が多く奉納されています。掃海艦艇さんがたお写真も勿論あります。その下には練習艦隊さんの「流し樽」が奉納されています。航海中に木の樽に、金刀比羅宮さんにお納めするお米、お酒、などを入れ流し、その樽を拾い上げた人々が金刀比羅宮さんに奉納する事で、幸訪れると云う風習。奉納されている樽は形状様々ですね。金刀比羅宮さんにお詣りし、奉納された写真や流し樽とお会いするのも、自分にとっての「風習」になっています。
もう一つの自分にとっての「風習」は、御本宮への渡り廊下。「南渡殿」と呼ばれるそうですが、何故か船底を思い出させ、毎年、その下に入り、しばし時間を過ごしています。今年はインコの親子を連れてゆき、見上げる自分の姿としました。不思議と落ち着くのですが、今年は残念な事がありました。防犯カメラが設置されていたのです。ここ数年、神社仏閣、歴史的建造物に油をかける不敬の輩がおり、金刀比羅宮さんも被害に遭われています。神域に相応しくない文明の利器ですが、不敬の輩…いえ、犯罪者を監視すべきです。大変残念な事でありますが。
しばし、御本宮前におりましたが、時間の都合上、再び約300段の朝日ヶ岡へ戻る事と致しました。
掃海殉職者顕彰碑前に戻ると…既に「たてつけ」が始まっておりました。今年の儀杖隊は、掃海母艦「ぶんご」さんの皆様。昨年も「ぶんご」さんの皆様でありましたが、お顔ぶれが異なります。毎年、入念に儀杖隊の皆様が「たてつけ」なさるのは、その為もあります。
「たてつけ」の時間内、ひたすら幾度も繰り返します。掃海殉職者追悼式は今年で66回目でありますが、その年毎に改まっています。
「たてつけ」は、前日、「ぶんご」さんが高松港に入港した日も行われていました。「追悼式週間」を凝縮した光景でもあります。背景は「シンボルタワー」。「ぶんご」さん間近をゆくのは、高松港と小豆島を結ぶ大型のフェリー「ブルーライン」さん。そして儀杖隊の皆様と展示用の機雷。もう1つありますね。木の枠組みが写っていますが、翌日の艦上レセプションの際の「屋台」です。
「ぶんご」さんの後方での「たてつけ」。この光景は、横須賀でも時折見られます。高松港では、「ぶんご」さんの背がお高いので、岸壁(下)にいらっしゃる人々からは殆ど見えないかもしれませんね。
「ささーげーつッ」。一動作でありますが、簡単ではありません。シンプルな動作ほど、難しいのです。角度や高さを合わせる事は非常に難しいのです。このような「合わせ」の難しさは、自分が舞台で経験しているので、よく判ります。なかなか揃わない。自分だけが頑張っても揃いません。自分が上手にやっているつもりでも、周囲と合っていなければ意味がありません。「組織」「集団」とは、自分だけが頑張っても周囲と調和していなければ意味がありません。
「TAKAMATSU」。追悼式週間を象徴する光景です。
「TAKAMATSU SYMBOL」。弔銃発射の「構え」と機雷。この動作も大変難しいですね。非常に難しい。明確な「焦点」があれば、その「点」に集中すれば良いのですが、それ「点」がありません。ですが、頬に当てる位置、銃身を持つ位置、肘の角度がありますね。自分は、このように銃を構えた事はありませんが、弓は射る事が出来ます。弓もやはり、引いた手を頬に当てる位置が重要。しかし、最も難しいのは、弔銃発射のタイミング。誰一人遅れてはなりません。
再び、「ささーげーつッ」。高さが合って来ましたね。何事も積み重ね。ひたすら繰り返す事で、次第に揃ってゆく筈です。ただ、やみくもに繰り返しているだけでは揃いません。「合わせるのだ」と云う気合いが必要。気合いだけではなく、自らが何の為に、この動作をしているのかも自覚しなくてはなりません。「弔銃」です。一つ一つが追悼の動作です。
高松港入港の日の「たてつけ」から1日経過した朝日ヶ岡。掃海殉職者顕彰碑を前にした「たてつけ」です。青の作業服ではなく、当日と同じ「白」。お足元も当日と同じくにする「たてつけ」があってもよかったかもしれません。
前日、「ぶんご」さんが高松港に入港された際は、雨が降り濃霧たちこめ、屋島が消える程でしたが、翌日の琴平は快晴。梅雨入りが近付いている頃ですので、毎年、天候が気がかりですが、今年は両日ともに晴天となります。夏を思わせる青空と「白」。
今年は、これまでと異なる「陣形」となりました。2010年以降(それ以前は判りませんが)、左出、右展開でありましたが、今年は右出、左展開です。追悼式にて重要な役割を担われる呉音楽隊の皆様も、後方から前方へ。
国旗掲揚。「たてつけ」の記録は、追悼式当日に記録が難しいと思われる地点を優先します。式の最中は、即座に動けませんし、あまり動くべきではありません。場を乱してはならない。今年も追悼式当日、大変無礼な見学者が1名いました。一体、何処から現れたのか判りませんが。
ぶんご儀杖隊の皆様、打ち合わせ。緊張感が漂います。この後、池 呉地方総監が「たてつけ」に来られます。また、夕刻から「ぶんご」さんにて艦上レセプションが行われますので、「たてつけ」の時間も限られています。その時間内に完成度を高めなくてはなりません。あと、何回、出来るのか。
いつもは元気な笑顔の若者たちですが、この時は笑顔はありません。「たてつけ」が真剣に行われている事を顕している光景でもあります。
今年は最前線に出られた呉音楽隊の皆様。呉での数々の行事でご多忙の皆様の演奏を拝聴するのは、何と昨年の砕氷艦「しらせ」さん呉寄港、掃海艇「いずしま」さん転籍の10月以来となりました。
呉音楽隊の皆様は、追悼式に於いて、大変重要な役割を担われています。特に弔銃発射の際。弔銃発射と演奏の間合いが僅かでもズレると、次に響きます。出港入港らっぱのタイミングのように、独特の「間合い」があります。弔銃発射は誰一人遅れてはなりませんので、呉音楽隊の皆様の演奏が「命綱」とも云えます。
掃海殉職者顕彰碑と儀杖隊の皆様。自らが何故、幾度も幾度も繰り返し「たてつけ」を行っているのか。追悼式当日は、掃海殉職者顕彰碑が「世界の中心」となります。追悼の意を掃海殉職者顕彰碑に集中させるのです。
こちらも国旗掲揚・降下の大役を担われる方々。呉音楽隊の皆様が演奏される『君が代』に合わせ、掲揚し、降下されます。通常の自衛艦旗艦首旗掲揚とは「高さ」が相当異なります。『君が代』の演奏が終了するまでに行わなくてはなりません。難しいです。
掲揚降下の動作もないがしろにはできません。指の先まで神経を行き届かせなくてはなりません。皆様、日々敬礼されていますので、手や指先が見苦しいと云う心配はありません。実は、手や指先まで美しい動作は、「稽古」が必要です。『Salute Trainer』と云うアプリを使った事がある「一般人」なら判ると思いますが、敬礼は難しいのです。美しい動作は稽古していないとできないと断言して良いです。これも自分が経験しているから断言。自分は敬礼ではなく踊りですが。
国旗降下してからの動作も重要です。無駄な動作なく、的確にたたむ。布地は紙ほど云う事を聴いてはくれません。まずは、外す。
たたむ。この時点で難しい。柔らかい布地ですから、あらぬところで折れる可能性があります。とは云え、皆様、旗を折りたたまれるのも素人ではありません。
三角におりたたんでゆきます。先日の「はちじょう」さん勇退の日も、三角におりたたまれた自衛艦旗が誇らしく掲げられました。四角ではなく、三角にたたむ。四角にたたむと全体に厚みが出ます。毛布のたたみ方も「自衛隊たたみ」がありますね。厚みを出さず、余白を出さず。
ひたすら一連の動作を確認し続ける儀杖隊の皆様。自らの位置だけではなく、銃の位置もぴしりを揃えなくてはなりません。舞台等であれば、「バミって(目印のテープ)」あります。しかし、追悼式に、それはありません。何の目印もないのです。
ひたすら各所で「たてつけ」が繰り返されていましたが、いよいよ『第66回 掃海殉職者追悼式』を取り仕切られる池 呉地方総監がご到着になられました。これより、当日と同じく「通し」の「たてつけ」が行われます。
池 呉地方総監も「たてつけ」を行われる「通し」は、1回のみ。数回行う事は難しい時間帯に入っていましたし、2010年以降、「通し」が数回行われた事はありません。細かい繰り返しは行われますが。緊張の「通したてつけ」が始まります。
では、『第66回 掃海殉職者追悼式』詳細投稿第4回は、ここまでとさせて戴きます。