さまざまな思いがよぎり、神経すり減る東日本大震災に関わる投稿ですが、当時、投稿出来ていなかった東日本大震災直前の記録を再生します。前回投稿は、3月9日。東日本大震災発災2日前。今投稿は、3月10日。東日本大震災発災前日です。
2011年3月10日(木)横須賀 東日本大震災発災前日
午前6時24分(22分にも?)三陸沖を震源とするマグニチュード6.6の地震発生
宮城県石巻市・伊具郡丸森町・栗原市で震度4強。6時28分、福島県に津波注意報発表
2日続けて、三陸沖を震源とする強い地震が発生し、津波注意報が発表されました。津波注意報は午前7時30分に解除。2日続けて東北地方で強い地震と津波注意報。「…2日続けて…前日の余震?」と思いつつも気にかかり、この日は午前から横須賀へ。投稿は午前11時52分より始めます。逸見岸壁には前日と変わらず、佐世保よりの護衛艦「ちょうかい」さん、HOME横須賀の護衛艦「きりしま」さん、試験艦「あすか」さん。この日は逸見へリポートに哨戒ヘリコプターSH-60J80号さんが飛来。空は前日と変わらず、特に異変は感じられず、むしろ美しい青空と白い雲。視界が澄んで、清々しいとさえ感じられるお昼少し前。
逸見へリポートにヘリコプターさんがいらっしゃる際、ご滞在はほぼ2,3分です。すぐに戻ってゆかれます。この日も僅か2,3分でした。颯爽と離陸されたSH-60J80号さん。夏を思わせる雲を背景に。空に何も異変は感じられず…。東日本大震災災害派遣では、ヘリコプターさんがたは欠くべからざる存在でした。捜索活動・救援支援物資搬送…強い余震が起きる度に昼夜を問わず状況偵察。獅子奮迅の活動でした。ヘリコプター搭載出来る艦艇さんがたは、それぞれ洋上の「航空基地」となり、最も多い時で500機近くの陸海空自衛隊さんのヘリコプターさんがたが被災地に展開されていました。
東日本大震災発災前日の吉倉桟橋。本当に何の異変も感じられません。「いつもの光景」です。現在、ソマリア沖・アデン湾における派遣海賊対処行動の任務に就かれている護衛艦「おおなみ」さんの傍らには、油船YO35号さん、YG206号さん。
【修正追記】「たかなみ」さん、「おおなみ」さんは2012年2月中旬、「むらさめ」さん、「はるさめ」さんと交代なさっていました。既に帰国の途についていらっしゃる事でしょう。
東京湾には、米海軍さん巡洋艦「シャイロー」さん。前日、東京湾にいらしたのは、「ジョン・S・マケイン」さんでした。「シャイロー」さんも「トモダチ作戦」にて被災地へと向かわれる事となります。背景は東京電力富津火力発電所。米海軍さんの方々は、今も地道に復興支援をなさっています。神奈川新聞さんでは報じられますが、他ではあまり報じられていないのは大変残念です。避難している福島県の子どもたちを招いて、折り紙をしたり、お洋服のプレゼントがあったりの交流会。今も支援を必要としている方々がいます。発災直後は物資が最優先ですが、時間の経過と共に必要になって来るのは、「心のケア」。支援は地道に長く続ける事が大切です。
記録は、「シャイローさん」のいらっしゃる東京湾から長浦港へ。この日も強い地震が起き、津波注意報が発表されていましたが、早朝には津波注意報も解除されていましたし、一見して、本当に何の異変も感じられなかった為、海や空の記録が少なくなっていました。「安心」したのでしょう。前日に続き、船越岸壁には佐世保よりの護衛艦「おおよど」さん。お昼時であったのですが、内火艇さんが出てゆかれようとしていました。
前方からも内火艇さん。前日に続いて、護衛艦「ちょうかい」さん内火艇の皆様と掃海艦「やえやま」さん。最も早い段階で被災地に到着される事となる方々。
「ちょうかいさん内火艇」さんに続くは、「おおよどさん内火艇」さん。佐世保にご所属の皆様。この日、空にも海にも何の異変は感じられませんが、災害派遣へと直結してゆく光景の連続となってゆきます。
横須賀本港側からは、護衛艦「おおなみ」さん内火艇の皆様。この時間帯、どッと内火艇さんが出て来られます。日々、内火艇さんがたは横須賀の港各所を行き来されていますが、ここまで集中して出て来られる事は、そう多くありません。
まさに続々…でした。先頭は「ちょうかいさん内火艇」さん、後方から「護衛艦きりしま」さん内火艇の皆様。
横須賀本港側から、護衛艦「はるさめ」さん内火艇の皆様。「内火艇ラッシュアワー」となってゆきます。
まるで、EOD員さんがたの「 EOD ride」の如くでした。「ちょうかい・おおよど・さわゆき・きりしま内火艇」さんの皆様。「護衛艦隊内火艇部隊」。
「おおよどさん内火艇」さん、「さわゆきさん内火艇」さん、「きりしまさん内火艇」さん。全ての皆様が被災地へ。自分は内火艇さんがたを「附属の小舟」とは思っていません。だからこそ、記録していました。それは、2009年八都県市合同防災訓練の際に、小田原の少し先、江の浦での多用途支援艦「えんしゅう」さんの「孤立住民の救助訓練」を見学していたから、と云う事もあります。江の浦には遠戚が活き造りの店を営んでおり、漁船も所有しています。その為、見学に行ったのですが(遠戚が当時の地区班長であった事も)、江の浦は小さな漁港です。「えんしゅう」さんは、港には入れません。台風迫る折、沖合から「えんしゅう」さん作業艇さん2隻で江の浦漁港に到着。孤立した住民を「えんしゅう」さんへ運び、小田原港へ。再び、小田原港沖から作業艇さんにて住民の方々を小田原漁港へお送りする、と云う訓練でした。その時、内火艇さん・作業艇さんは、災害時に重要な役割を果たす…と学習しました。「小さな船」と思うなかれ。
この日、「いつもように」ではない光景が多くありました。こちらも「小柄」ながら縁の下の力強い力持ち。曳船YT83号さん。潜水艦さんがたの入出港をお手伝いされている際を、よく目にしますが、この日は…横須賀港務隊の皆様が多くいらっしゃいます。どうしたのだろう??と思っていた時でした。深浦湾から…
「動いて」いらっしゃる際を初めて目にしました。運貨船(で良いのでしょうか)YL119号さん。
YL119号さんのお姿を目にしたのは、2008年8月2日『よこすかサマーフェスタ2008』以来でした。初めて海上自衛隊さんの見学記録をした日以来でありました。深浦湾にいらしたようですが、何か…お手伝いをなさった帰りであったのでしょうか。曳船YT83号さんはお迎えに来られたのでしょうね。殆ど、お目にかかる機会がありませんでしたが、東日本大震災以降、全ての艦艇船さんがたが重要な役割を担う時が来る…と痛感しました。曳船さんがたも、東日本大震災発災直後から夜になっても、津波が幾度も押し寄せる横須賀本港内に待機されていました。
2008年8月2日以来のYL119号さんをお見送りした直後でした。前日に続き、掃海艦「やえやま」さん杉山艦長(当時) with EODチームの皆様がかッ飛び出て来られて驚きました。東日本大震災発災前日も、「いつものように」に吾妻島前へ訓練に出てゆかれました。掃海艦艇さんがたは、こちらの作業艇とEOD員さんがたが駆使する水中処分艇の2隻を搭載しています。東日本大震災災害派遣にて、大変重要な役割を果たします。ましてや、 海の爆発物処理班=EOD員さんがたは掃海艦艇さんがた、それぞれに4名ご所属です。当時の「やえやま」さんのように、杉山艦長ご自身がEOD員さんである場合もありますし、EODチーム以外にも潜水員の方々がご所属である場合もあります。掃海部隊さんには、多くのダイバーの方々がご所属であるのです。また、潜水艦救難母艦「ちよだ」さんには多くの飽和潜水員さんがた、各護衛艦さん・輸送艦さんがたにも潜水員さんがたがご所属です。海に潜ってしまって、なかなかお姿・存在を知る事が難しい海上自衛隊さん潜水員の皆様。東日本大震災災害派遣にて、これまで培われた高度な技術と底力を発揮される事となります。テレビでの報道でご覧になられた方々も多くいらっしゃる筈です。漂流物に埋め尽くされた被災地の海で、行方不明の方々を捜索される漆黒のダイバーの皆様のお姿を。行方不明の方々の救助救難捜索のみならず、救援物資の輸送、漁師さんがたの支援などもなさるのですが、掃海艦艇さんがたは全29隻。作業艇・水中処分艇2隻ずつ搭載しているとして、58隻。更に各地方隊にご所属の水中処分隊さん、掃海母艦さんがたの作業艇を加えると100隻に近付きます。日本がもし、世界有数の掃海部隊さんを擁していなかったとしたら…東日本大震災以降、改めて切実に考えさせられました。
吾妻島前へ、かッ飛び出てゆかれるEOD員さんがた。東日本大震災発災前日、長浦港より訓練に出てゆかれたのは、掃海艦「やえやま」さんEODチーム・掃海艇「のとじま」さんEODチームの皆様。東京湾、何の異変もなし。ただ、青い海と空…。
横須賀本港側からは、横須賀水中処分隊のEOD員の皆様。EOD員さんがたの本来の任務は、海に潜む爆発物の除去。東日本大震災災害派遣では、行方不明の方々の捜索・収容、物資の輸送、漂流物の除去…多岐に渡る長期のご活動をなさる事となります。
横須賀本港に戻り…。現在、ソマリア沖・アデン湾における派遣海賊対処行動の任務に就かれている護衛艦「たかなみ」さん。この日は、各所で作業をなさっていたようでした。翌日、一斉に出港される事となります。東日本大震災発災翌日には、被災地に到着。皆様がいらっしゃる後方甲板は、ヘリコプターさんがたのヘリポート。大津波で孤立された方々の救助を開始されます。
【修正追記】「たかなみ」さん、「おおなみ」さんは2012年2月中旬、「むらさめ」さん、「はるさめ」さんと交代なさっていました。
お隣は、同じくソマリア沖・アデン湾における派遣海賊対処行動の任務に就かれている護衛艦「おおなみ」さん。この日、「たかなみ」さん、「おおなみ」さんでは、皆様、近しい作業をなさっていたように見えました。整備の日であったように見えましたが、常にきちんと整備されている事、発災前日まで、皆様が作業をなさっていた事が、発災から1時間以内の一斉出港を可能にし、即座の被災地でのご活動を支えた事でしょう。
【修正追記】「たかなみ」さん、「おおなみ」さんは2012年2月中旬、「むらさめ」さん、「はるさめ」さんと交代なさっていました。既に帰国の途についていらっしゃる事でしょう。
この日、おやしお型潜水艦さん、魚雷を装填されていました。「いつもの光景」でした。潜水艦さんがたは、発災時から夜が訪れるまで、津波による潮位変動を繰り返す横須賀本港を護っておられましたが、18時過ぎにお二方共に出港されています。翌朝も戻って来られていません。当時、一斉に被災地へ海上自衛隊さんの艦艇さんがたが向かわれています。潜水艦さんがたも被災地近海へ向かわれていたと思っています。
発災当日18時10分。警備員さんが見つめる先には、出港される「おやしお型」潜水艦さん。大型曳船さん、曳船さんがたは横須賀本港内に待機を続けておられ、吉倉桟橋では、ありったけの物資を積まれていたであろう、補給艦「ときわ」さん。この時、再び海面は急上昇していました。左に少しだけ『YOKOSUKA軍港めぐり』の汐入桟橋が写っていますが、ほぼ水平に近付いています。まだ、満潮には数時間ありますので、津波による海面上昇です。警備員さんに「海面が急上昇しています。そこは危ない」と叫んだところ、「いや。ここから動く訳にはいきません」。何故、警備員さんは動く事が出来なかったのでしょう。それは、普通に歩いて来られる方々がいらしたからです。3月11日、横須賀本港周囲を歩いていらっしゃる方々は、「普通」でした。幾度、海面が急上昇しようと。気付いていらっしゃらなかったように見えました。津波に対する切迫感はありませんでした。津波の前兆となる「引き潮」の際は、海面が渦巻く事もありましたが、海面が急上昇する際は、音もなく静かに海面全体が上昇してゆきました。一見、海は穏やかに見えますが、海全体が盛り上がって来る。盛り上がったまま海全体が圧倒的な力で港へ押し寄せて来る様は、数々の映像に記録されています。
発災前日に戻ります。東京湾吾妻島前から横浜・東京方面。 EOD員さんがたのお姿が見えます。極めて穏やかに普通。時刻は14時台。発災まで、24時間。何の異変もありません。
「やえやま」さんEODの仁谷さん。次にお目にかかったのは、ニュースの映像。行方不明の方々の集中捜索の際でした。潮がかなり引いている時間帯ですね。EOD員さんがたの日々の訓練が行われている吾妻島前は、被災地の海岸線に近いように思います。時に視界が1cmと云う事も…。皆様は、1年を通して、この海岸線で訓練なさっていました。
こちらは…「やえやま」さんEODの鮏川さんですね。やはり、次にお目にかかったのは、ニュースの映像でした。皆様が訓練を終えられ、戻られた際を目にしていませんが、おそらく、14時46分には、まだ吾妻島前にいらした事でしょう。この時、杉山艦長(当時・現第46掃海隊司令)をはじめ、「やえやま」さん、「のとじま」さんEOD員の方々の殆どが海の中にいらっしゃるのですが、もし、東北地方太平洋沖地震が、この日に発生していたとしたら…皆様が潜水訓練なさっている際であったとしたら、あの震動…海を伝わった、自分も体験した「あの震動」を海の中で感じられたのでしょうか。自分は海の上でしたが、「ががががッ」と云う、小刻みの震動(縦揺れ)は、今も鮮明に思い出されます。小刻みでしたが、強い震動でした。1年が経過しようと、当時の事を頻繁に思い出します。また、当時は気付いていなかった事が急に気になり始めたり…今も、地震速報が届きました。宮城県ですね。
振り返り吾妻島前。普通の晴れた日です。東日本大震災発災前日14時台。あまりに何事もない空と海。
長浦港に入る頃…前方より、水船YW21号さん。艦艇さんがたに必要不可欠のお水を届けられる水船さん。「日常の光景」なのですが、水船さんも災害派遣に向かわれる事となります。水船さんのご所属は、港務隊さん。横須賀の港各所でのお仕事。ですが、防衛省さん発表の資料には、「給水車による給水支援」とあります。水船さんが運ばれたとは記載されていません。3月18日までに「給水車472台分(1,215トン)」とあります。そう云えば…給水車さんは、1度にどれほどの水を運べるのでしょう?wikipediaを観てみると、自衛隊さんの車輛で「3トン半」とあります。3トン半…。防衛省さん発表の資料にて、横須賀警備隊さんの給水支援、最初に記載されているのは、3月13日。72トンの給水支援を実施とあります。場所は書かれていません。72トン。3.5トンで計算すると20台分です。では、水船さんは何トンの水を一度に運べるのでしょう。防衛省さん発表の資料では、「水船(YW)」の記載はありませんが、横須賀からオリエンタルランドさん岸壁まで、水船さんが運び、そこで給水車による給水支援をなさったと思っていますが。
こちらは、2011年8月、掃海艦「やえやま」さん、「はちじょう」さんの体験航海が行われた際の千葉県浦安市のオリエンタルランドさん岸壁。横須賀の水船さんがた、こちらのオリエンタルランドさん岸壁にて、給水支援に向かわれた事と思います。千葉県浦安市では、東日本大震災発災後、深刻な液状化現象が起きました。あちらこちらから砂と水が噴き出し、道路はぐにゃぐにゃと溶けた飴のよう。マンホールが盛り上がり、水道管は破損。5ヶ月後に訪れたオリエンタルランドさん岸壁は、その被害を免れたようですが、舞浜駅から、ここに至る道は、5ヶ月が経過しても、各所が歪んでいました。もし、給水車(車輛)で水を運ぼうとしても、道路はでこぼこ。ゆっくりでなければ危ないです。時間がかかってしまいます。何往復もするのは、かなりの時間がかかるでしょう。船で運んだ方が速いです。多分。(時折、油船さんや水船さんが東京湾の何処からともなく、横須賀に戻って来られる時があります。いつも、どちらから戻られているのだろう?と思う事があります)
2011年8月の舞浜駅。夢と魔法の国ディズニーリゾートは営業を再開しており、たくさんの人々の楽しげな笑顔が満ちていましたが、舞浜駅は歪んだままでした。写真が曲がっていますが、真っすぐ撮れなかったと云うか、良く判らなかったのです。自分が真っすぐ立っていない。タクシーさんでオリエンタルランドさん岸壁へ向かったのですが、徐行運転でした。道路がでこぼこなのです。電信柱もあちこち様々な方向に傾いていました。防衛省さん発表の「東日本大震災災害派遣活動状況」に記載されていたオリエンタルランドさん岸壁。文字だけで観ている際は、ディズニーリゾート側だと思っていたのですが、少し離れた地点でした。実際に行ってみなければ判らなかった事でありました。液状化の被害状況も。
東日本大震災発災前日、水船YW21号さんが近くを通られた事もありますが、何故か、水船さんを続けて記録していました。こちらは整備中でしょうか。水船YW24号さん。こうして、「いつもの横須賀の港各所」の光景が東日本大震災へと直結してゆきます。
横須賀本港へ戻る頃…機雷桟橋には、訓練を終えられた横須賀水中処分隊の皆様が戻られていました。3月は皆様のご所属が変わられる時期でもあり、その為、連日横須賀に通っていました。しかし、何もかもが翌日、吹き飛びます。楽しみにしていた予定も、重要な予定も、「何事もない平穏な日常」も。何もかもが一変します。
この日の横須賀での記録の締めくくりは「よこすか海軍カレー」のキャラクターのスカレーちゃんと特製(勝手に作った)パフェでした。如何に、普通に何事もない東日本大震災発災前日であったかを物語る、「楽しい日常」の写真でした。その「何事もない日常」のかけがえのなさ。突如、奪われる「楽しい日常」。取り戻せるものもあり、決して取り戻せないものもあります。いつ襲うやもしれない大災害によって何もかも奪われない為に、抗う事の出来ぬ大自然の凄まじい力の前に無力であると判っても、少しでも護り救う為には…よく知る事です。知れば知る程、恐ろしくなる事もありますが、よく知る事。恐ろしい大災害から学ぶ事です。奪われるだけではなく。